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コンクリート打放しは打設までが勝負_a0394451_11150436.jpg


きょうは急遽、H HOUSEの現場へY君といってきました。
先日あがってきた施工図のチェック図の返しと一部変更が生じたのでその説明のためです。

H HOUSEは内外コンクリート打放しの2世帯住宅です。
我が事務所は、内外コンクリート打放しの建物を数多くてがけています。
実は内外コンクリート打放しの建物はコンクリート打設までが勝負なのです。
今回の住宅も4階建て住宅ですが、基礎を完了した段階で4階までのすべてのパネル割り、Pコン割はもちろんのこと、電話、テレビ、コンセント、スイッチ、各種リモコン、などの位置はすべてミリ単位で決定してあります。
これらの位置にはすべて根拠があります。パネルジョイントにあわせたり、Pコンのセンターにしたり、なんだかの理由があるのです。

それから気を抜けないのが打ち込みプレートのセット。
階段の手摺の受けフラットバーや、今回は22ミリの段板プレートの打ち込みがあります。
また一部スチールロッド柱の打ち込み、有孔ブロックセットのためのフラットバーなどなど、、、。
あと付けの施工のほうが楽なことはわかっているのですが、我が事務所は躯体にシュッとスチールプレートが刺さっているディテールにこだわるのです。

これらのセットを間違えるととんでもないことになります。
ですから自ずと現場は最大の注意をはらいながら施工し、ぼくらも緊張して現場を監理していかなければなりません。
まずは壁配筋が完了し設備配管が完了し型枠を返す前の段階でひとつひとつチェックしなければならないのです。
そしてつぎはスラブに取り付く機器の位置の確認。
配筋状況の検査、型枠の清掃、などを経てやっとコンクリート打設となります。
コンクリート打設もそれなりに気を使わなければならないのですが、コンクリート打ち放しの建物は打設までが勝負であるという気がします。

今回、工事を担当してくれているU社は以前、木造住宅を担当してくれた実績があるのですが、我が事務所のコンクリート打放しははじめて。
現場担当のMさんはとても前向きに進めてくれていますが、ぼくらもきめ細かく監理をすすめていくつもりでいます。

最善、万全の準備をしたものにのみ、最良の躯体を得られるということです。
がんばりましょう!
# by hosoya_isao | 2008-03-11 23:45 | Comments(0)

500分の1の計画は難しいなぁ~_a0394451_11150491.jpg

今朝は起きると小雨がぱらついていました。
ということで朝のジョグは中止。
たまにあるこういう朝はけっこう好き、ゆっくり新聞を読んで、ゆっくり目覚ましテレビを見て、ゆっくり朝食がとれます。

雨でもスタッフはちゃんと駅から自転車で通勤してきてくれます。
雨だからジョグを中止なんてやっぱり自分に甘いのかな~。

きょうはS Uの関係の設計の基本プランのエスキースをしました。
2000坪あまりの敷地に400坪ほどの建物を計画するのですが、こんな広い敷地でふだんやりなれていないので、なかなか大変なのです。
考えるスケールは500分の1。
いつもやっている設計はエスキースの段階から100分の1。
エスキースをしながらディテールを考えながらすすめているのです。
ところが500分の1となると、そうはいきません。

久々に1級建築士の製図の試験を受けているような感じ。
まずはゾーニングから。
必要諸室の面積の確認。
敷地は傾斜地で等高線も意識しながらすすめなければなりません。
どこまで既存の土地形状をいじっていいのか、造成は最小限にすべきかなどなど、いろいろ悩みながら建物をプロットしていきます。

なんとかゾーニングがきまったところで、建物を200分の1の平面、断面での検討です。
こんな作業、何年ぶり?いやいや何十年ぶりでしょう。

たまにはこのようなスケールで建築を考えることも必要なんですよね。
偏った頭のいいトレーニングになっています。
# by hosoya_isao | 2008-03-10 20:00 | Comments(0)

父を偲んで

父を偲んで_a0394451_11150424.jpg

きょうは父の13回忌の法要がありました。
あ~父が亡くなってからもう12年もたったのかと改めてすぎる時間の速さを感じます。

父の部屋の机の横には、いまでも父の日記がそのまま何冊も積まれています。
湯上りに、食卓で毎晩ウイスキーを飲みながら日記を書いている光景をぼくは小さいときから見続けていました。
必ず毎日1ページほど書いていて、いつでも読めるところにおいてあるのですが何故か、幼心にも父の心の中を覗き見するようで、怖くてとても開くことはできませんでした。
亡くなってからのこの12年間もその気持ちは変わらず、そのままおいてあります。
でもそろそろ父の部屋を整理しながら、父の日記を開いて、父の人生をたどってみたい気にもなってきました。


ということできょうは父の思い出話。
父は明治45年生まれ、農家の次男として生まれました。
教師になることを目指し、川越高校から浦和にある師範学校へいったそうです。
そてから東京物理学校(現在の東京理科大)へいって数学の勉強をしたときいています。
はじめは大宮の小学校の教員をしていたそうでが、昭和19年に上板橋の私立城北高校の教員に就任。
32歳のだったそうです。
城北では30代で教頭になり38年間の勤続だったそうで70歳で退職するときは副校長でした。

子供は5人兄弟、真ん中に長女で上下が男4人、そしてぼくは一番下。
男兄弟は4人とも父の勤める城北中学、高校に行かされる?ことになりました。
当時は教職員の師弟は授業料をかなり減免されていたようです。
毎年新学期が始まると、真っ先にぼくら兄弟の生徒手帳の授業料納付ページには1年分の納付済のハンコをおしてありました。

男兄弟4人が入れ替わり立ち代り入学してくるので、先生方は性格も外見も違う兄弟をおもしろそうに比較していた気がします。
父親と6年間も同じ学校というのはなかなか大変なことでした。

我が家の暗黙のルールは一歩玄関からでたら、父親は父親ではなく、学校の先生になるということ。
ですから学校の行き帰りにばったり会ってもお互いに無視をするのです。
他の生徒に父と馴れ合いの姿をみせたくなかったですし、父もそれを望まないのではとかってにおもっていました。
まれに便利なこともありました。
集金のお金を忘れたときなどは休み時間に父にお金を借りに行ったこともありました。
ただ父は100人ほどの教員のいる大きな職員室の一番奥に席があるのです。
そこの席に行くまでに親子関係を知らない何人かの先生に「何の用だ?」ととがめられるのがいやでした。

父は父で子供に窮屈なおもいをさせたくないとおもっていたのだと思います。
ですから、基本的にはかなりやりたいことを自由にやらせてもらえました。
中高生時代、ケンネル同好会を立ち上げたり、高校生時代には当時不良の始まりといわれたグループサウンズのバンドをやらせてもらったり、、、。

ただ、1度だけ父に注意されたことがありました。
当時、学生運動が盛んでぼくらの高校も昼休みに全体集会というのを開いていました。
髪の毛が長いのは校則違反ということで罰を与えられた生徒がいたのです。
それはだまっちゃいられない性格、それは不当弾圧だと学校側に抗議運動をしてしまったのです。
それにはさすがに父は参った様子で、その晩、家で「頼むから集会で発言するのはやめてくれ」といわれてしまいました。
いまおもえば、当然のはなしです。

父はスポーツ、とくにサッカーが大好きでした。
昭和30年代からサッカー部をつくり初代の監督をしていて、当時はたびたび国体や全国大会に出場していました。
当時は帝京はまだまだ弱かった時代です。
グランドでみずから指揮をとる父はとても頼もしかった。

基本的にはとやかく口はださず、じっと見守ってくれているタイプ。
こちらが辛いそうなときだけ「がんばれ!」とひとことくれるのです。

教員を退職してからは、ゲートボールをたのしみながら町の教育委員長などをさせていただき地域の方々と交流していました。
とても充実した一生だったようにおもいます。

ただ、父の晩年には、ぼくが一番心配をかけてしまったようです。

いまでも墓前に立つといつも詫びることばかりですが、いまでもその父からの「がんばれ!」という声が聞こえてくる気がします。
# by hosoya_isao | 2008-03-09 20:14 | Comments(0)

バタバタ走りっぱなしの土曜日_a0394451_11150345.jpg

きょうは土曜日ですが9時から事務所で雑務。
11時過ぎに仕事を片付けて、10キロランをしてきました。
気温もあたたかくなり、きょうは風もなく気持ちよく走ることができましたといいたいところですが、再来週に熊谷大会を控え、ちょっとペースを上げて走ったのでけっこう疲れました。
でもタイムはまあまあの感触、この調子を維持していきたいとおもいます。

もどって、週末でからっぽの冷蔵庫から冷凍食品のカレーうどんをみつけて昼食、久々のカレーうどんは意外においしかったですね~。

午後は明日の法事の買い物。
まず、駅前の花屋さんへいって祭壇へお供えする花を注文し、それからスーパーへいき果物の盛り合わせを注文。
その間にお供えの酒を買い、ついでに自分のアルコールと食料の買出しも、、、。
お菓子のお供えも必要なので文明堂でお菓子の詰め合わせも購入です。

一通り買い物を済ませてから、こんどは入院している兄の見舞いに川越の病院へむかいました。
この埼玉医大総合医療センターはこのあたりではもっとも大きい病院です。
今週はじめに手術を受けたのですが順調に回復している様子で安心しました。

いつもこの病院にいくと、母をはじめとして、いろいろな知人が入院していたことが思い出されます。
そしていまの自分の健康に感謝する気持ちになるのです。
それと同時に、いまの自分は絶対病気にはなれない状況、というか環境を改めて感じるのです(笑)。

帰りがけに、花屋さんによって花を受け取り、お寺へ届けてきました。

帰ってからは座席の名札を書いたり、お布施の準備をしたり、仏壇の掃除をしたり、、、。

バタバタだった1日でしたが、夜7時、やっとひと段落つきました。

明日は父の13回忌、みんなが集まり、きっと父は喜んでくれる気がします。
# by hosoya_isao | 2008-03-08 18:27 | Comments(0)

構造・設備の設計のパートナーは大事_a0394451_11150385.jpg

きょうはH HOUSEの現場の打ち合わせにいってきました。
地盤改良工事をおえて、基礎工事も完了し、やっと1階立ち上がり部分に取り掛かっています。
写真は先日の基礎の配筋検査、梅沢構造研究所所長の梅沢さんに来ていていただきました。

そういえば、梅沢さんとはもう20年以上の付き合いになります。
確か水野歯科医院が最初でしたでしょうか、、、。
Fの知人のWさんの紹介だったとおもいます。
当時は、丹下事務所から独立されて、代々木のマンションの一室で事務所をされていました。
梅沢さんは、どんどん規模の大きなプロジェクトも手がけられ、数々の賞を取られてきていますが、我が事務所とはずーっと途切れることなく、小さな建物、面倒な建物にも関わらず構造のパートナーを続けていただいています。
(最近は梅沢事務所OBのNさんにも協力してもらっています。)

梅沢さんのすごいのは、打ち合わせの中で初見の物件でもポンポン、アイディアがでてくること。
それを聞きながら、意匠設計者であるぼくがよりイメージに近い構法やディテールを選択できるということではないでしょうか。
ときにはハードな納まりの提案もあるのですが、それは技術者としての前向きな姿勢の証。
それがいいのです。
ですからぼくらも必死でディテールを考えざるを得ないこともしばしばです。
そういうお互いの切磋琢磨があり、よりよい緊張感ただよう建物になることを20年あまりの梅沢さんとの付き合いの中から知りました。

ちなみに設備設計のZO設計室の柿沼さんも、なが~い付き合いの設備設計のパートナーです。
ZO設計室の柿沼さんとも15年以上のお付き合いになるとおもいます。
Kさんも何冊も設備設計の著書のある、学術的にも実務的にも知識と経験の豊富な設備設計者です。
かつてぼくが修行時代の同僚のFさんに紹介していただいたのが最初だった気がします。
ざっくばらんでおおらかな気質の柿沼さんとは打ち合わせもサクサクすすんで気持ちがいいのです。
文字の特徴も、けっこうぼくも近いものをもっているので親近感をいだいてしまうのでしょうか?(笑)


このように素晴らしい設計のパートナーに出逢え、仕事を通じて、刺激しあい、建物を造り続けられるということはとても幸せなことだな~とおもっています。

これからもよろしくお願いいたします。
# by hosoya_isao | 2008-03-07 22:31 | Comments(0)